1983-09-20 第100回国会 衆議院 本会議 第6号
しかし、八月の君の補欠選挙に御子息禎一君が君の御遺志を継ぎ、みごと当選の栄冠をから取られ、いま本院議員として活躍せられていますことは、君もまた泉下で、あの穏やかな笑みを浮かべて御子息を見守っておられることと存じます。(拍手) ここに、君、御生前の偉業をたたえ、その人となりをしのび、心から御冥福をお祈りして、追悼の言葉といたします。
しかし、八月の君の補欠選挙に御子息禎一君が君の御遺志を継ぎ、みごと当選の栄冠をから取られ、いま本院議員として活躍せられていますことは、君もまた泉下で、あの穏やかな笑みを浮かべて御子息を見守っておられることと存じます。(拍手) ここに、君、御生前の偉業をたたえ、その人となりをしのび、心から御冥福をお祈りして、追悼の言葉といたします。
医療問題一筋に取り組んできた君は、その研究を一層幅広く深めるため、同年、同志を糾合して丸茂社会保障研究会を創設し、研さんに努められ、医療が国民皆保険になるに及んで、医療の改革は政治の場によらなければ不可能であると考え、昭和三十七年第六回参議院議員通常選挙に全国区から出馬し、みごと当選され、政界への第一歩を踏み出されたのであります。
○新村委員 みごと当選を果たされたことについては、これは御同慶にたえないところです。これを踏まえて、今後は平和国家として世界の信頼と尊敬が得られるような国家になるように、ひとつ大臣の特段の御活躍を心から御期待申し上げまして、質問を終わりたいと思います。
この選挙で久保先生はみごと当選の栄冠を得られましたが、私は不覚にも一敗地にまみれ、国会での先生の御活躍を野にあって、はるかに注目してまいったのであります。 やがて、昭和四十二年一月の総選挙で私も本院の議席を得ることができ、それからは、公私にわたり、先生の温かい御指導と御交誼をいただいてまいりました。
かくて、第十回参議院通常選挙にみごと当選され、また本年の選挙で再び当選されました。この間、終始、文教委員会委員として活動されたのであります。 お元気なときは、委員会に精勤せられ、温顔もって人に接するという態度で、いつもたたえられていたあの微笑が忘れられません。
昭和三十四年、すでに労働界に確固たる地歩を築かれていた君は、真の民主主義を確立し、福祉国家を建設するために政治家を志し、第五回参議院議員通常選挙に全国区から立候補してみごと当選され、政界への第一歩を踏み出したのであります。以来、今日まで四回連続して当選の栄誉を得られ、この間、民社党の結党に参画され、二十一年の長きにわたって本院議員として活躍されていたのであります。
そして、同年十月の第二十五回衆議院議員総選挙に、自由党公認として香川県第二区から立候補せられ、みごと当選され、ここに政治家としての第一歩を踏み出されたのであります。 私も、大平さんが議席を得られた翌年の第二十六回衆議院議員総選挙に立候補して議員となり、内閣委員会において大平さんと席を同じゅういたしました。
しかして、地方政界において確固たる基盤を築かれていた君は、真に豊かな国民生活と地域社会の充実を実現すべく、昭和五十一年十二月の総選挙に立候補し、地元の熱烈なる支持を得て、大激戦の上、みごと当選の栄冠をかち取られました。
昭和三年一月、東京市助役、翌年東京市長代理となられた後に、昭和五年、第十七回衆議院議員総選挙に立憲政友会公認として栃木県第一区から立候補し、三十四歳の若さをもってみごと当選の栄を得られたのであります。
かくして、昭和二十一年二月には熊谷市議会議員に当選され、同年六月には、その識見、力量が認められ、請われて市助役に就任され、翌二十二年には公選第一回の熊谷市長選に立候補して、みごと当選されたのであります。(拍手) 自来、昭和三十三年まで三期十一年にわたり熊谷市長の要職につかれ、戦後の困難な時代にあって、市の戦災復興に全力を傾注され、今日の熊谷市発展の基礎を築かれたのであります。
すでに地方政界において確固たる基盤を築かれた君は、新党の新人による新風を国政にとのキャッチフレーズによって選挙戦に臨まれましたが、君が国政の改革に寄せる情熱はたちまち郷党の熱烈な支持を得るところとなり、みごと当選の栄冠をかち取られ、全国ただ一人の民主社会党の新人議員として中央政界への輝かしいスタートを切られたのであります。
あなたは、一度は固辞されましたが、支持者の強い要請にこたえて、三十年に近い官界生活を去り、昭和四十七年十二月の第三十三回衆議院議員総選挙に際し、自由民主党から立候補し、先輩の灘尾代議士や私を抜いて、最高点をもってみごと当選されたのであります。(拍手)この選挙中、資金の枯渇に悩まされた君は、「財産があるわけではなし、ないそでは振れない」と言い切って最後まで闘い抜かれたことも語りぐさとなりました。
やがて先生は、戦後約十年にわたる労働運動、政治活動を通じて得た体験と抱負を国政の場に生かすべく、昭和三十三年五月に行われた第二十八回衆議院議員総選挙に立候補し、みごと当選を果たされ、保守の地盤とされていた富山県第二区、初の革新議員の誕生を見るに至りました。(拍手) 本院に議席を得られた先生は、地方行政、建設、災害、公害・環境、予算等の各委員会において幅広く活躍されました。
そして同年十二月、第三十四回衆議院議員総選挙が行われるや、兵庫県第二区から立候補、爆発的な人気でみごと当選の栄冠を獲得されたのであります。勇躍、抱負に胸をふくらませ、新自由社会の建設、教育立国への執念に燃え、いよいよと思われたやさき、全く突然、第八十回国会の昨年二月、先生は不幸にして病魔に襲われ、病と闘いながらの議員活動となったのであります。
九十三票という差というのは、読み方によっては苦しんだと、苦しんでさんざんな目に遭ったというふうにも読めましょうし、あるいは苦労してみごと当選というふうにも読めましょうし、これはまあいろいろと判じ方はあると思うのです。それだけに法務大臣は当事者であったからこそ、いま自民党は厳しく反省してますと、こうおっしゃっているのですね。ところが、実際に果たして自民党の党員全員がそれほど深刻に受けとめているか。
参議院議員として在職すること四年余、郷党の懇請により、参議院議員を辞職、昭和三十年二月の第二十七回衆議院議員総選挙に立候補して、みごと当選し、本院の議席を獲得されたのであります。 本院に議席を得られて以来、君は、党内屈指の政策通として、常に内閣あるいは党務の枢機に携わってこられました。
この献身的な活躍は、君の人柄と相まって、広く人の信頼と期待を集めるところとなり、一昨年の参議院議員通常選挙にあたり、推されて全国区から立候補され、みごと当選の栄を得られました。 君は、当選の直後、立候補した目的と今後の抱負を、こう語っておられました。「私は二つの目的をもって立候補いたしました。その一つは、長年憲法問題に携わってきたので、わが国の安全保障問題についてじっくりと取り組みたい。
君は、昭和三十四年、そのうんちくと抱負経綸をば国政の場において実現するために、組織の圧倒的な御推薦を受けて参議院通常選挙に出馬、みごと当選し、自来十三年の間、参議院議員として大蔵、農林水産、予算の各常任委員、また湿田単作地域農業改良促進対策審議会委員、北陸地方開発審議会委員及び皇室会議予備議員として広く国政の審議に参画せられ、さらに昭和四十一年には参議院逓信常任委員長として委員会を主宰し、参議院における
君のこの政見は選挙民の力強い支持を受け、みごと当選の栄冠をかちえられたのであります。(拍手) 君は、本院議員として、庶民の生活に密着した実際的な感覚と、多年にわたってつちかわれた国際的視野とをもって、国政の各分野に活躍されました。逓信、内閣、建設などの各常任委員会の委員として、常に熱心に国政の審議に当たられ、その精励ぶりは、与野党の別なく、同僚委員のひとしく敬服していたところであります。
そして、昭和三十八年十一月、第三十回衆議院議員総選挙が行なわれるや、日本社会党公認候補として勇躍立候補し、選挙民の力強い支持を集めて、みごと当選の栄冠を獲得されたのであります。(拍手) 本院に議席を得られてからの君は、その豊富な知識と貴重な経験を生かして活躍いたし、日本社会党におけるかけがえのない存在として、党の内外に大いに声価を高められました。
(拍手) そして、昭和二十七年十月、第二十五回衆議院議員総選挙が行なわれるや、あなたは、祖国の再建と郷土広島の復興のため努力したいとの決意を固め、激戦の広島県第一区から勇躍立候補し、みごと当選の栄を獲得されたのであります。